ぜろ通信

嘉向徹と保科亮太のブログです。└( ^o^ )┐

初編 其のニ「小針浜」

 2013年春。嘉向と保科の出会いは、新潟県内で行われている震災関係のボランティア活動で訪れた。関係者が多かったこともあり、お互いに挨拶程度で、「元気そうな若者がいるな」くらいであった。この時、何気に嘉向はサラリーマンで、バリバリではもちろんないものの、一般社会に身を投じて働いていた。可もなく不可もない日常。保科の方は、お金を貯めて海外放浪の予定を早々と投げ捨て、地元に戻ってボランティア団体を三つ四つ掛け持ちして生活していた。二人とも誰かのため、という動機よりも、人との出会いの流れでやっている、という感覚であった。

 嘉向は三人男兄弟の末っ子のO型、動物占いは狼。両親が海の家やカフェを経営しており、ネイチャー系な雰囲気のもと、伸び伸び育ってきた。内定していた大学進学を直前で取り下げ、教職員一同対嘉向で行われた懇談会は、今やレジェンドである。トレードマークとなっている『青髪』については、幾つかの逸話が残されているが、有力説としては、“海の青に心底惚れていて、その青に同化したいから”が強い。『新潟が生んだ海童』とも呼ばれている。

 保科は二人兄弟の末っ子のO型、動物占いはライオン。自称『叩き上げ』で、両親共働きの中流家庭に育った大卒の野球少年。単純に野球が好きで、就職も進学もせずに社会人でも二年プレーした。「枠の中ではやり切ったな」という勝手な達成感を感じた後、『自分へのご褒美キャンペーン』と題し、海外進出を企てたが、“今しかできない”川の中へ身を投じ続けた結果、現在の流れに至る。爽やか系と称されがちではあるが、母親も含めて何人もの女性を泣かせてきたウェット野郎である。

  そんな二人が親睦を深めはじめたのは、嘉向がそろそろリーマンを辞めようかなという秋頃で、最近のリーマン事情を聴きながら、二人で出張ボランティアで山形に行ったり、暇な時に連絡を取ったりするようになった。やがて保科も流れでNPOなどで勤めたが、発作的にやりたい事が多過ぎて「シフト制」に限界を感じ始めていた。症状が悪化した時などは、休みの日に空港まで行き、飛行機に乗らずして飛行機の離着陸を見届け、“遠くまで行って、無事に帰ってきました感”を自身へ演出していた。

  ある初夏の日の夕暮れ。二人は新潟県の小針浜から少し泳いだ先にある、小高いテトラポットの上にいた。眼前に広がる海面の先には、佐渡が大きく見えた。たわいもない色もの話などをした後、二人の間にぽつりぽつりと言葉が出てくる。

「僕のおばあちゃん、佐渡に一人で住んでいることもあって、やっぱり畑とか大変そうなんですよね〜。多分そういう人たちって、かなり多いと思うんです。そこに僕みたいな、体力はあるけど何したらいいか分からない若者を、じゃんじゃん送り込んだら面白いんじゃないかなって思うんです。」

嘉向に続いて保科もつぶやく。

「なんか、新潟とかで東北で被災した人たちと交流してきたけど、いい感じに誰でも遊びに来れる拠点があったら、いちいち企画しなくてもいいんだよな〜。もう、どこの人だからとか、どういう背景があったからとか、そういうの、関係なく会いたいよね。」

 二人の中には、“誰かのために”を唱えて行動する能力が欠如していた。「自分がやりたいと思ったから、やる。」それだけだった。「自分が動いた結果、誰かが喜んでくれたらラッキー。」そのくらいだった。おそらく、“誰かのために”を先行し続けると、何か上手くいかなかったときに、その“誰かのせいに”したくなる、そんな自分に会うのが嫌だったのだろう。お金を介さない、ボランティア活動の中などに身を投じたからかもしれない。「やりたくて、やってます。」見返りは、自己満足だけもらっていく。重要なのは、“どれだけ自分を出し切れたか”だった。いわゆる“ボランティア精神”とか、ない。「身を捧げたくなって、捧げている。」ボロボロになってから食べるご飯が、死ぬほど美味しかった。ボロボロになってから眠りに就いた布団が、死ぬほど心地よかった。

 組織とか団体に所属しているから出来る事が、山ほどある。逆に、肩書きのない個人だから出来る事も、山ほどある。どっちが良くて、どっちが悪いこともない。行きたい方に、行けばいい。どっちが自由で、どっちが不自由もない。心の在り方次第で、どうとでもなる気がした。

 

 佐渡の方に夕陽が沈んでいく。

 

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 海面に漂う二人の身体が、ゆっくり、ゆっくり、影になって消えていった。