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ぜろ通信

嘉向徹と保科亮太のブログです。└( ^o^ )┐

「走れゼロス」

   ゼロスは激怒した。必ず、かの国士無双の王を除かなければならぬと決意した。ゼロスには政治がわからぬ。ゼロスは村の遊人である。口笛を吹き、猫と遊んで暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明ゼロスは村を出発し、野を越え山越え、十里半(42.195Km)はなれた此のリョーツの港にやって来た。ゼロスは、父にも母にも、諦められていた。結婚も許されなかった。双子の勝気な妹と二人暮らしだ。名をインパクトという。この妹は、村の或る律儀な一農協職員を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近なのである。ゼロスは、それゆえ、花嫁の祝宴に振舞うわかめやらアゴだしを集めに、はるばる港にやって来たのだ。先ず、その品々を身体を張ってかき集め、それからリョーツの港をぶらぶら歩いた。ゼロスには竹馬の友があった。カムキンティウスである。今は此のサドガスの島で、遊人をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにゼロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当たり前だが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなゼロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った地域起こし協力隊をつかまえて、何かあったのか、一年まえにトキマラソンに来たときは、夜でも皆が佐渡おけさを踊って、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて、イッテツという老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。ゼロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。

「王様は、人を脱落させます。」

「なぜ落とすのだ。」

「大会規定だ、というのですが、誰もそんなルールを守れはしませぬ。」

「たくさんの人を落としたのか。」

「はい、はじめはイバヤ国のケイゴさまを。それから、DA天使トールを。それから、川崎市の小林さまを。それから、PE天使ホッシーを。それから、新聞配達をしてから駅前で挨拶運動してうどん屋の店長をしてから家庭教師をしていた今山さまを。そして、会津国のお姫さままでも。」

「おどろいた。国王は乱心か。」

「いいえ、乱心ではございませぬ。ベアフットを信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、大荒れの天気予報が出ているというのに、選手を呼び集め、走らせます。走るのはいいのですが、雷風を駆使して脱落させます。御命令を拒めば横に車をつけて、強制送還されます。今大会は、2,165人落とされました。」

 聞いて、ゼロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」

 ゼロスは単純な男であった。海産物を、背負ったままで、のそのそ会場にはいって行った。たちまち彼は、大会の役員に捕縛された。調べられて、ゼロスの懐中からはiPhoneが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。ゼロスは、王の前に引き出された。

「このスマホで何をするつもりであったか。言え!」暴君ゴディオスは静かに、けれども威厳を以って問いつめた。その王の瞳は大きく開き、犬山生まれの狂犬の如く敵意を剥き出していた。

「島を暴君の手から救うのだ。」とゼロスは悪びれずに答えた。

「おまえがか?」王は憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、運営側の意図はわからぬ。」

「言うな!」とゼロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、選手の忠誠をさえ疑って居られる。」

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」

「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはゼロスが嘲笑した。「これだけの選手を脱落させて、何が平和だ。」

「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」

「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと落ちる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、ー」と言いかけて、ゼロスは足もとに視線を落とし瞬時ためらい、「ただ、私に情けをかけたいつもりなら、流刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」

「ばかな。」と暴君は、甲高い声で言い放った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がしたトキが帰って来るというのか。」

「そうです。帰って来るのです。」ゼロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、インパクトが、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この島にカムキンティウスという遊人がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を海へ流して下さい。たのむ、そうして下さい。」

 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に流してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を流刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。

「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと流すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」

「なに、何をおっしゃる。」

「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」

 ゼロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。

    竹馬の友、カムキンティウスは、深夜、会場に召された。暴君ゴディウスの面前で、佳き友と佳き友は、一年ぶりで相逢うた。ゼロスは、友に一切の事情を語った。カムキンティウスは無言で首肯き、ゼロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。カムキンティウスは、縄打たれた。ゼロスは、すぐに出発した。晩春、北斗の七つ星が煌めいている。

    ゼロスはその夜、一睡もせず十里半の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。ゼロスの双子の妹も、きょうは兄の代りに畔塗りをしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

「なんでも無い。」ゼロスは無理に笑おうと努めた。「港に用事を残して来た。またすぐに港に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」

   インパクトは頬をあからめた。

「うれしいか。新鮮な海の幸も採って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」

 ゼロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

 眼が覚めたのは夜だった。ゼロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿のハイドは驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、おけさ柿の季節まで待ってくれ、と答えた。ゼロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿のハイドも頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、3rd HOUSE で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。ゼロスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。ゼロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮らして行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。ゼロスは、我が身に鞭を打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。ゼロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、

「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに港に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りをもっていろ。」

 花嫁は、夢見心地で首肯いた。ゼロスは、それから花婿の肩をたたいて、

「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と猫だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、ゼロスの弟になったことを誇ってくれ。」

 花婿は揉み手して、てれていた。ゼロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、二階の押入れにもぐり込んで、死んだように深く眠った。

 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。ゼロスは跳ね起き、南無三、寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。ゼロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨もいくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、ゼロスは、両足の靴を脱ぎ、

「靴、返還の儀。」

と、声高らかに叫び、天に向かってぶるんと投げ捨て、雨中、矢の如く走り出た。

 私は、今宵、海へ流される。流される為に走るのだ。そして、身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は流される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと、ノーラ。若いゼロスは、つらかった。幾度か、立ち止まりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。ゼロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはやノーラへの未練はない。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐにオンデコドームに行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり走ろう、と持ちまえの呑気さえを取り返し、この島にぴったりの曲、森山直太朗の『太陽』をいい声で歌い出した。ゆったりと走って二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、ゼロスの足は、ぐぐっと、押し戻されるようにとまった。見よ、鬼の形相、空で乱舞する風神を。走るには、あまりにも強すぎる向かい風、目には見えぬ、悪魔の息吹が、ゼロスを襲う。田圃ばかりの平野部に、吹き荒ぶ突風が、ゼロスのからだの自由を一切奪った。歯を喰いしばり、また、声を限りに叫んでみたが、むしろ体力は削られるばかりで、気分は滅入った。風はいよいよ、ふくれ上がり、台風のようになっている。ゼロスはバイパス沿いにうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う風を! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、会場に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために流されるのです。」

 暴風は、ゼロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。風が風を呼び、威勢よく、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はゼロスも覚悟した。凌ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 暴風にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。ゼロスは、全身を細く丸くし、風の抵抗を最大限にとどめ、大きな袋をふいごのようにして突風を巻き起こす風神相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を脚にこめて、一瞬の油断が命とりになるであろう向かい風を、なんのこれしきと耐えに耐えて歩を進めた。めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐憫を垂れてくれた。押し戻されつつも、見事、サドガスの役所に、辿り着く事が出来たのである。ありがたい。ゼロスは、狼のように大きな雄叫びをあげ、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、天から雷鳴が轟き、鬼の形相ふたたび、雷神が躍り出た。

「待て。」

「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちにオンデコドームへ行かなければならぬ。去れ。」

「どっこい消えぬ。ただちにリタイアしろ。」

「私には明日も次も無い。この、たった一度の機会に、全身全霊を込めているのだ。」

「その、穢れなき魂が欲しいのだ。」

「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」

 雷神は、ものも言わず力一杯に太鼓を叩いた。ゼロスはひょいひょいと、からだを前後左右に動かし、飛鳥の如く神のいかづちをさっと避け、車道脇の木陰に身を潜め、「気の毒だが、正義のためだ!」と側にいたベジの民を楯にして進んだ。九死一生、避雷針ベジの活躍により、なんとか、雷轟をかわし、さっさと走ってニイボの町を下った。一気に町を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の暴風雷雨との格闘に、からだは芯から冷え、ゼロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろニ、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上がる事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、激風を凌ぎ、雷轟をもベジに助けられ韋駄天、ここまで突破して来たゼロスよ。真の勇者、ゼロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて流されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を断ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私はきっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。カムキンティウスよ、ゆるしてくれ。君はいつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、カムキンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友との間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。カムキンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。激風を突破した。神のいかづちからも、ひらりと交わして一気に町を駈け抜けて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを流して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。カムキンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には家賃0イエンの家が在る。猫もいる。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。自分をだまして明日を生きる。それが現実世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。—四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

 ふと耳に、かおかおと、鳥らしき鳴声が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ近くの森で、朱鷺が住んでいるらしい。よろよろ起き上がって、見ると、東の空より、一羽の鳥が、美しい朱色の羽を広げ、天高く舞っている。

〝おまえは生きてこの時代を見届けねばならぬのだ〟

 ゼロスの心に、トキの声が強く響いた。すると、風によって飛ばされてきた加茂湖の水しぶきが、七色に輝き、ゼロスのからだを潤した。ほうと長い溜息がでて、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! ゼロス。

 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。ゼロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として逝く事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして逝かせて下さい。

 路行く役員を押しのけ、「会場まで、あと一里」の看板を跳ねとばし、ゼロスは黒い風のように走った。リタイアしてバスを待っている選手たちの、そのまっただ中を駈け抜け、関係者たちを仰天させ、空き缶を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の選手と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を流してはならない。急げ、ゼロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。ゼロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、リョーツの港におけさ丸が見える。カーフェリーは、夕陽を受けてきらきら光っている。

「ああ、ゼロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。

「誰だ。」ゼロスは走りながら尋ねた。

「フィロストアキトスでございます。貴方のお友達カムキンティウス様の弟子でございます。」その若い遊人も、ゼロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」

「いや、まだ陽は沈まぬ。」

「ちょうど今、あの方が流刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

「いや、まだ陽は沈まぬ。」ゼロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。

「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたをを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、ゼロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題ではないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。本当のゴールは、他でもない、自分自身で決めるものなのだ。ついて来い! フィロストアキトス。」

「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」

 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、ゼロスは走った。ゼロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、ゼロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。

「待て。その人を流してはならぬ。ゼロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれてしわがれた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたカムキンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。ゼロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、暴風を突破したように群衆を掻わけ、掻きわけ、

「私だ、審判! 流されるのは、私だ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついにステージに昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ、ゆるせ、と口々にわめいた。カムキンティウスの縄は、ほどかれたのである。

「カムキンティウス。」ゼロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」

 カムキンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、会場一ぱいに鳴り響くほど音高くゼロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、

「ゼロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。裸足では無理だと、生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」

 ゼロスは腕に唸りをつけてカムキンティウスの頬を殴った。

「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ゴディオスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてはくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

 どっと群衆の間に、歓声が起った。

「万歳、王ゴダ万歳。」

 すっと、ステージ脇から現れたウォニカ姫が、緋のマントをゼロスに捧げた。ゼロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。

「ゼロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この美しい姫君は、ゼロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらななく口惜しいのだ。」

 勇者は、ひどく赤面した。

 

(古伝説と、幻のトキマラソンから。)

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